こんにちは!神様とご縁を繋ぐ 光子です。
今年の夏休みは、子どもたちに付き添って、彼らの祖父母の家へ、言い換えれば元夫の実家を訪ねてきました。
超久しぶりの、たぶん8年ぶりの東北新幹線。
息子が赤ちゃんの時以来でした(^^;)
離婚したにも関わらず、元義理実家を訪ねるというのは、たぶんあまり一般的ではないですね。
それでも、私には訪ねたい理由がありました。
それは、子どもたちのおばあちゃんの体調が、あまり思わしくなく、お元気なうちに会っておきたかった、というものです。
普通、嫁姑の関係というと、あまり仲がよろしくない、というのが多いかと思いますが、私と元夫のお母さんとは仲良しで、離婚後もずっと仲良くさせていただいていました。
それでも、私が訪ねるのは違うよね、ということで、子どもたちの帰省の際には、必ず元夫と行かせていたのですが、毎回
「息子より、光子ちゃんに会いたいわ」
と言ってくださるし、私も会いたいのが本音でしたので、今年は付き添うことにしたのです。
訪ねてみたら、私が想像していたよりずっとお元気で、一安心。
一緒に楽しい時間を過ごしました。
さて、ここからが本題なのですが、訪問中に子どもたちと、そして子らのおじいちゃんと、ある城跡を訪ねました。
私、城跡は、正直苦手です……
人の想いというのは、どうしても場所や物に残ってしまうもので、特に強い想いは、長い時間が経っても、ずっとその場に留まり続けます。
それを、感知しちゃう体質?なので、とにかく苦手なのですが…
調べたら、そのお城では大きな合戦はなかったようですし、歴史に関するところに行きたい子どもたちが、喜びそうで、割と近くて、まだ訪ねていない場所は他になく…
思い切って訪ねることにしました!
訪ねてみたら予想通り、場所としては負荷のあまりない場所でした。
言葉にするなら、なんというか、
「穏やかな日々が続く場所だったんだな」
という印象で、お殿様も、お城で働く人々も、何かすごく怖い思いをしたり、辛かったりという想いを抱くことなく、続いていく日常を生きていたんだな、という場所でした。
歴史に関する品々の展示もあるので、それらをみんなで見たり。
そんなふうにまったり過ごしつつ、再建された天守閣もあったので、そちらも訪ねてみました。
天守閣に入ってみて、
「やや?怖いぞ?」
と、変な印象。
ネタバレしてしまうと、天守閣の中にも展示があったのですが、それらは全て、戦いに関する品々の展示。
刀とか…具体的に書くのは怖いので、書きませんんんん!!!
怖くて…(;_;)
でも、子どもたちが登ろうというので、天守閣の上まで登りました。
息子が手を繋いでくれていると、なぜか怖いのが少し和らぐので、ずっと手を繋いでもらいつつ、展示の前をダッシュで通り過ぎて、何もなく見晴らしのいい最上階まで上がりました。
見晴らしは最高!
東北の山々が、雲や霧にけぶるように見えて、美しく幻想的な風景でした。
それで、問題は、天守閣から下りて出てからのことです。
「あー、やっちまった…ついてきちゃったよ」
でした。背中痛いし。落ち武者風の方々が。
期待されても…と困惑して
「ごめんなさい。さようなら」
と心の中でお声がけして、離れていただきました。
すっ、とみなさま、離れてくださったのですが、ふと
「もう少し何か、言ってさしあげられることがあったんじゃないの」
と思ったのです。
そこで改めて、
「ごめんなさい。さようなら。みなさまが成仏されますよう、お祈りいたします」
と心の中で言い直しました。
すると、ふわっ!と、一気に桃色の花が咲くように、柔らかく、優しい想いに変化したのです。
私がやったのは、相手の幸せをお祈りしただけで、私が救ったわけでも、助けたわけでもありません。
本当に、お祈りしただけです。
それでも、それからはついてくる感じはなく、背中の痛みもなくなって、普通に帰れました。
本当になんともなかったのですが、異変に気づいたのは、お風呂に入る時のこと。
自分の家ではないし、神社でもないので、いつも外で身につけているのと同じ装備(?)で、自分をガードしたまま過ごしていたのですが、お風呂に入るために、お守りなど、一部を外したのです。
すると、私のお守護さん層の向こう側に、見慣れない方々がいらっしゃる…
(普段、装備をしていると、軽いものは感知できなくなります。普通に過ごしたいので、基本的に常にガードしています)
「げ、結局ついてきてるじゃん!!」
というのが第一印象。
でもなんだか、さっきとは雰囲気が違って「ファン御一行様」みたいな様子なのですww
「うわ…ファン化してる…うちわとか持ってそうな感じじゃん」
と軽く引きつつ、でも悪さをしようというのは全くない様子ですし、私のお守護さん層よりさらに後ろなので、距離としては結構遠く。
「まぁ、家の結界は入れないだろうし、家に帰れば問題ないでしょう」
ということで、気にせず過ごすことにしました。
でもね、でもね、なんか変なのよ。
やたらと運がいいのよ…ww
ファン御一行様が、私の運を特盛にしてくれてるとしか思えない、というレベルで、やたらとラッキー。
特に帰りは、私ひとりで始発の新幹線で帰って、そのまま出勤したのですが、電車を降りるとそこが階段など、いろいろな巡り合わせやタイミングがやたらスムーズ。
「神様からのお呼ばれで神社に行く時みたいに、やたらスムーズなのは何でなん??ww」
と思いながら、予定より早く最寄り駅に到着しました。
その後、どうなったかと言いますと…
職場にはチャペルがあって、前を通る時に、私は一礼することにしているのですが、この日、チャペルの前で一礼すると、すーっと数人が離れていきました。
「あ、キリシタンだったんかな?そういう方もいらっしゃるかもね、そうだね」
と思いつつ、そのまま職場へ。
仕事後に家に帰って、神棚の前でお祈りすると、久々だったのもあって、キラキラを大量にかけてくださったので、スッキリ!
そして実は、この文章を書いていたら、少し背中が重くて、
「あ、まだいらした?そういえば仏教を信じている方へのものが、何もなかったですね」
ということで、残っていらした方々に向けて、般若心経を唱えました。
(スピ的な、というより読経が普通の実家だったので、普通の流れでです。曽祖父はお坊さんだったのもあって)
たぶんこれで終わりです。
少し怖い話を書いてしまって、恐縮なのですが、私が書きたかったのは、
「私たちが他人のためにできることは、その人の幸せを、祈ることだけ」
ということでした。
それが、お城の跡で考えていた、主に書きたかったことで、その後の話は、想定外に続いてしまって書いた、余談でした。(長かったですね(^^;) )
これは「利他」ということとも近い話なのですが、私たちが他人のために
「やってあげよう」
ということは、必ずしも相手にとって利益となるかはわかりません。
それは受け手が、
「わあ、ありがたい」
と思って受け取った時にだけ、利他になるのであって、
「ありがた迷惑!」「やめてほしい」
と思っている時には、あくまで差し出した側の「利己」でしかありません。
これは、自分が弱者(受け手)にならないと、気づきずらいことかもしれませんね。
「やってあげた自分」に酔いたい送り手、という動機があっての
「やってあげよう」
の時もあるでしょうし、言葉ではなんと言おうと、結局相手を食い物にする意図がある時もあるでしょう。
そう考えると、本当に私たちが相手のためにできるのは、その人の幸せを願うことだけなのです。
もちろん、受け手が
「これをしてほしい」
と意思表示をした場合には、祈ること以上にできることがあるでしょうし、時には、こちらから
「これならできるよ?」
と提案して、例え断られても、相手の選択を尊重できる時もあるかもしれません。
けれど、そうでない限りは、相手が自分自身で幸せになろうとしない限り、周りができることは、あんまりないんじゃないかな、と私は思っています。
これは、生きている人間同士のことでも、もちろん言えることで、
「私が幸せにしてあげます」
「私が救ってあげます」
という人がいたら、私はその人を疑ってかかるべきだと思います。
その人には、こちらの(あなたの)幸せが何であるか、どんなものであるかはわかりません。
その人の思い描く幸せ、というところに、あなたをあてはめようとしているだけです。
逆に言うと、誰かに幸せにしてもらおうというのでは、きっと永遠にそこにはたどりつけなくて、自分で決めて、幸せになる必要があるのです。
それは、チャペルの前で、自然と離れていった方々が、ご自身で決めたのと同じように。
そして、特に、霊体でいらっしゃる方々に関しては、ご縁もないのに、こちらからわざわざ何かをするのは、自分を危険にさらすことになるでしょう。
そういうのもあって、わざわざ成仏させよう、除霊しよう、ということではなくて、
「(私は何もできませんので)ごめんなさい。さようなら」
という声掛けにとどめさせてもらったのです。
結果的に、なんだか今回はほっこりした話になりましたが、こういうのは異例だと思っています。
神様に対して何かする時も、
「よろしければ、召し上がってください」
「〇〇させていただいて、よろしいでしょうか」
と、相手(神様)の選択にゆだねたり、断りを入れるようにしています。
何かを勝手にされたり、強制されるのは、誰だって嫌でしょう?
そんなわけで、目に見えない方々との関りには、目に見えるみなさんとの関り以上に、気遣いが必要かなと考えています。
それは、自分のためにも、ですね(^^)
あなたの毎日が
今以上に素敵なものとなりますように。
光子でした。
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相手のためにできることは、あんまりない話

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