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私の思う、世界の仕組み

感謝の祈りと、求める祈り

こんにちは!神様とご縁を繋ぐ 光子です。


先日、妹から
「ある観光地に旅行で行ってみたら、不思議な場所だった」
と連絡がありました。

妹が言うには、ある観光地に出かけたところ、
「神社にいるみたいに、昼間はとても心地よい場所だったのに、暗くなっていくうちに、とても怖くなった。千と千尋の神隠しで『暗くなったら神様の時間で、人間に戻れなくなるから急いで帰れ!』のようなシーンがあったけど、同じようなことを感じるような場所だった」
とのこと。

ちなみに同行した彼氏くんも、同じように感じていたそうです。

妹のこの話を聞いて、
「あー、神社みたいな場所だったのね」
と思いました。

というのも、私が大好きな、昼間は清らかなエネルギーに溢れた神社も、夕方以降、暗くなってからは、鳥居の前からお宮のある方を見るだけで、
「今は、この場所には入ってはいけない」
と感じる、えも言われぬ恐ろしさがあるからです。

そもそも夕方になると、神様はほとんどお宮にいらっしゃらないことが多いですし、夜に訪ねるのは原則的にナンセンスなので、夜の神社はほとんど知らないのですが…
夜に訪ねたのは、お祭りの時と、八坂神社くらいかな?
(八坂神社さんでも神様はほぼいらっしゃらなかったです。詳しくは→こちら


ところが、妹の話には続きがあって、よく話を聞いてみると、小さなお社や祈りを捧げる像が、やたらと多い場所だったとのこと。

この話を聞いて、「ん?これは神社とは違いそうだぞ?」と思ったのです。

というのも、お社などが多いのは、一見、そこに住まう人々の信仰心の篤さを感じさせますが、実際のところ、本当に強力な清らかなエネルギーが満ちている場所があるのなら、たくさんの祈りの場を用意する必要はないのです。

伊勢神宮のように、一連の流れの多くの神々を、それぞれの場所を設けてお祀りするということなら、話は変わってきますが、統一されてはいない信仰の場所がたくさんあるということは、それだけその場所での暮らしが苦しかったことの表れではないか、と私は考えています。


それは感覚的にも、そのような場所を訪ねた時に、不思議な感じというか、心地よくない印象を受けることが、これまでに度々あったことも、理由のひとつです。

多くの祈りの場を設ける信仰心を抱くほど、大変な困難さと隣り合わせだったとも言えるでしょうし、それぞれの信仰の場は、過去に何かがあった場所だったり、何かを鎮めていたり、救いを求めていたり、困難さを回避するためのランドマークであるなど、理由があってその場所を整えているかもしれません。

例えば実際に津波が来た時に、
「言い伝えの通りに、高台の神社まで逃げたら、神社の前でちょうど波が引いて行った」
というエピソードがあったように、昔の人が、未来の子孫たちを守るために作った場所であることもあるでしょう。


妹とやりとりをしながら、こんなことを考えていたのですが、せっかく行った旅行は楽しんでもらいたい、ということで、この時に考えたことは自分の心にしまって、妹には怖いことは言わずにおきました。

とはいえその後も、妹から聞いたことはなんとなくずっと心にかかった状態で、数日を過ごします。


ところで、私は仕事の休憩中に、職場にあるチャペルや、チャペルに添えられた庭にいることが多いのですが、妹から聞いた話が、心にかかっていたある日、チャペルでぼーっとしていたところ、
「何かを欲しての祈りと、純粋な感謝の祈りとがある」
と、突然ひらめきました。

「何かを欲しての祈り」とは、「これを叶えてください」とお願いごとをする祈りです。
「恋を叶えてください」「お金を授けてください」などのお願いごともそうですが、自然との共存の厳しさや、生死がかかっているような深刻さも、願いの規模は違うようでも、大きく分ければ、「何かを欲しての祈り」なのだと気づいたのです。

対して、純粋な感謝の祈りとは、日々の糧や毎日の小さなこと、人とのご縁も、与えられているものだと思って、「ありがとうございます」と何のお願いごともなしで祈る祈りです。
神社だと「神恩感謝」と言ったりしますね。

私は普段、感謝の祈りをブログなどで勧めていますが、妹が出かけて行った先で、昔暮らしていた人々や、たくさんの場所にある同じような場所の人々、他にも自然の厳しさに抗いながら、一生懸命に生きた人々のことに思いを馳せると、何かを欲しての祈りも、決して軽んじられない、と改めて思ったのです。

そして、自分の身近で、同じように、何かを求める祈りはなかったかと、振り返ってみました。
そのうちに思い出したのが、妹が生まれた時の父の姿でした。

妹は未熟児ギリギリの体重で生まれ、他にも心配なことが多い赤ちゃんでした。
そんな妹のお産から、家に帰ってきた父は、真っ先にお仏壇の前に座り、祈り始めます。

祈る父の背中には鬼気迫るものがあり、産まれたことの喜びと感謝というより、
「どうか、お願いですから、この子を生きさせてください。守ってください」
という真剣さがありました。

中学生だった私は、どうしたんだろう?と不思議に思いつつ…
父は結局30分以上祈っていました。

私がこの時の父と同じ立場だったら、やはり同じように祈るでしょう。


ところで、先ほど氏神社にお参りに出かけてきたのですが、今回書こうとしてることの着地点に迷っていたところ、神様に教えていただいたことがありました。

それは、感謝の祈りと、何かを求める祈りと、どっちもあっていい、ということです。

どちらもあっていいけれど、原則として大丈夫なようにできていて、大丈夫であるためには、自分だけの小さな感覚、「ん?」と思った小さな違和感や糸口を逃さないでつかむこと。
そしてつかんだことは、その通りに行動することも必要です。

とはいえ概して人間は、人間の中の事情を重んじようとしたり、目先の利益にとらわれて、つかんだ違和感や糸口を、気のせいにしてしまいがちです。

けれども、そこで、つかんだことを信じて行動するのか、それとも気のせいで逃してしまうのかが、結局分かれ目になるのです。
そしてそれは、あなたにとっては、あなたの中にしか訪れない感覚です。


求めるものは、わかりやすい形で、そのままもたらされるとは限りません。
けれど、そこにたどり着くための標識のような道案内(さりげないという意味で)や、糸口は必ずもたらしてもらえます。

それをつかむのか、つかまないのか、その選択はあなた次第です。
結局は、自分で幸せになるんだよー!ということですね。


求める祈りがあってもいい。でも祈ったからには、自分の想定通りの形ではないものがあなたに訪れても、きちんと受け取ってつかめる器を、自分の側に用意する心持ちでいきましょう。
それが、あなたの祈りを求める形に変えてくれる糸口になるはずです。


あなたの毎日が
今以上に素敵なものとなりますように。

光子でした。

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