こんにちは!占い師の光子です。
「人生を好転させるには?」
となんとも仰々しいタイトルですが、
何のことはない、流れに乗れるようになるにはどうしたらよいか?ということです。
流れ、言い換えれば、
「なんだかわからないけどラッキー」
「最悪だ―って思ったけど、結果的に最高だった」
こんなことがたくさんある人生になるための方法です。
どうしたらよいか?
それはひとえに、あなたの持っている、
【なんとなく力】を使ってみましょう!
【なんとなく力】って何かというと、
直感と呼べるほどはっきりした代物じゃないけど、
「なんとなく気になる」
「なんとなく思い立った」
理由を聞かれたら、
「えー、なんとなく」
としか答えられないけど、突然現れてあなたの心に留まるもの。
それが、あなたの人生を好転させ、流れに乗れるきっかけになります。
そしてこのなんとなく力、受け入れれば受け入れるだけ、どんどん冴えてくるのですが、
「いや、考えてたのとは違うから」
と受け入れ拒否をすればするほど、
どんどん衰えていきます。
流れに乗るには
「なんとなくこれがしたい」
「なんとなくこれが気になる」
「なんとなくこれが食べたい」
この理由のつけられない思いに乗っていくのが、
とっても大切です。
そしてこのなんとなく力が、とても極まる時もあります。
例えば、入院する前日に、
「明日の朝来なさい」
と、ある神社に呼ばれたんですね。
入院時間から逆算すると、
「それ一体何時に家を出ればいいんですか?」
というような指示だったので、
内心、かんべんしてほしい思いつつも、行くことにしました。
すると、前日の夜から、
「次これして」
「次あれして」
と、なんとなく、けれど明確にどうしたらいいかわかるのです。
当日の朝も、普段ならしないルーティンが、
突然、けれどなんとなく湧くので、
とりあえず乗っかってみました。
そしてそんなことを何度も繰り返して、
神社にたどり着いて境内に入った瞬間に、
太鼓がどーん!と鳴って、朝のお祈りが始まりました。
「あー、今日のこの朝のお祈りに来なさい」
ということだったのか、と納得しました。
その日はその後も、神社の前にすーっとタクシーが止まり、そのタクシーに乗って行ったら、きっかり予定時間の5分前に病院の前に着きました。
そしてこの日のこの参拝を境に、私のメインのお守護さんが入れ替わりました。
(誰にでも複数ついていますが、メインの方はいます)
このなんとなくがどんどん湧いてきた約20時間は、
それまでのお守護さんと新しいお守護さん、
両方の存在を強く感じていた時間なので、
ちょっと普通の時とは違ったと思うんですね。
でも、やっていたことはひたすら、
「なんとなく気になる」
を次々に拾っていっただけなのです。
ということは、なんとなくって、
なんとなくじゃないんです。
ある意味、なんとなくを拾うことが、
私たちを守り導く目に見えない存在と、
繋がることなのです。
メッセージやお導きを受け取ることとも言えますね。
こんなに極まった状態の時じゃなくでも、
普段の生活の中で、
「なんとなくこれがしたい」
こんな思いが湧いてくることはありますよね?
あなたの中にそんな思いが湧いてきたら、
大人の思考でつぶしてしまう前に、とりあえず拾ってみましょう。
そして「なんとなく」を拾い続けると、
流れに乗れて、嬉しいことに恵まれるだけでなく、その先にはきっと思いもよらないひらめきや驚き、そして新しい世界が待っているはずです。
あなたの毎日が
今以上に素敵なものとなりますように。
光子でした。
Categories
人生を好転させるには?
1 reply on “人生を好転させるには?”
[…] こんにちは!神様とご縁を繋ぐ 光子です。夢を見たことや、娘の登校が難しくなったことで、愛のことを直視した話、後編です。(前編はこちらです)娘にとってどうするのがベストかわからなくなって、教頭先生と面談の機会を持ったのですが、そうですね…先生には全く悪気はなかったと思うのですが、知らなかった新情報を知って、結構ショックを受けたのは事実でした。というのは、娘は同じ学年の子同士で交流を、積極的にしないようにしている、というもの。だからこそ、4年生の今年は、大人ではなく子ども同士で関わるよう、先生が方向付けをしていたという話も。全然知らなかったですね。1年生の時から、友達に誘われても、自分がしたいように休み時間を過ごしていると本人から聞いていたので、「誘われるうちが華だよ?誘われた時は一緒に遊んだら?」とは伝えていたのですが、1年生の時に感じた懸念が、先生方から見てもはっきりわかる形で、出るようになってしまっていたようです。その後にあった、心理士さんとの話の中でも、似たような話が出て、もやもやした気持ちを、どうすることもできなくなってしまいました。詳細は控えますが、「それって結局、娘が他の子の攻撃の対象になることが当然ということですか?」「それって、私の育て方が悪かったってことですか?」と言いたくなる事実をつきつけられて、なんかもう…本当に参ってしまいました。指摘があったことのうちの一つは、娘だけでなく、息子も同様に持ち合わせている性質に対するもので、その性質自体は、決して悪いものではないんですね。どちらかといえば、歓迎されたり褒められたりする類のもの。けれど、私にとっては子どもが二人とも持っている性質なので、それがこれくらいの年齢の子どもの普通だと思って、過ごしてきたことでもありました。それがここに来て、普通じゃないという指摘を受けて…先生は私の子育てが悪かったと言われたわけではなかったのですが、標準を知ったり、疑いを持ったりすることなくここまで来てしまった自分自身が、親として間違っていたかのような感覚になったのです。さらには、お会いしたことのない方から受けた、お仕事に対する批判とか、反対に「この人は私と同じものを感じ取っているだろう」と思っていた人から聞いた「普通は神様のエネルギーはわからない。それはすごいことだよ!!」という私の予想に反したお言葉、しかも批判とは真っ向から対するものとか、そういう考えなくていいもののことを一気に考えてしまって、自分の中がわちゃくちゃになってしまいました。この間、結構仕事も忙しくてですね。鑑定のご依頼も普段以上に立て続けにいただいていて、自分を奮い立てて鑑定させていただいていたのですが、なんだろう、本当に自分として釈然としない鑑定しかできず、初めて「いつでも返金できる準備」をしていました。個人的なことは仕事に持ち込まないと決めているのに、本当にダメで、まずそもそも飛べないのです。だから、普通の時なら、カードを広げて見ただけで、お客様の状態がわわー!!っと見て取れるのですが、本当に、何もわからなくて…とはいえお客様からいただいた、大切な時間とお金ですから、とにかくロジカルにカードを読むに徹していました。でも、お客様が私に期待していたのって、そういうことじゃないはずだよなと…もう本当に落ち込んだ…冷静になった今なら、「こういう自分の状態の悪い時は、お客様の日程のご希望には沿えなくても、ご予約を先延ばしにしていただいた方がいい」と思えるのですが、そこまで頭も回らず、お受けしてしまって、本当に反省。ご希望に沿えるよう、可能な限り早い日程でできた方が、お客様のためになる(私が多少無理してでも)というのは、もうこれからはやめようと、強く思いました。そんなこんなで落ち込んだり、「何が正しいのかわからない。私が今までやってきたことって、何だったんだろう」という虚無感に襲われたりと、とにかく落ちる一方で、「やばいな、私ちょっと鬱っぽいぞ…」と出口のないところに入ってしまった自分の状態を、自分で危惧していました。そんな本気で苦しかった折に、母の命日が近かったので、家族でお墓参りに行くことに。正直体力的にもきつくて、朝から出かけるための準備をするのもしんどい。とはいえ、お母さんのためだものと、みんなで出かける準備をしていました。共感してくださる女性は多いのではないかと思うのですが、化粧をしてる時って、忙しくても、なんだか凪っぽい瞬間なんですね。気持ち的にバタバタしていないというか。だからなのか、私は化粧をしている時に、何かひらめくことが多いのですが、この日は「あ、帰りに〇〇神社行こう。子どもはお父さんに預けて、みんなは先に帰ってもらおう」と思いつきます。〇〇神社というのは、名称は控えるのですが、ブラッドパッチ(脳脊髄液減少症の治療のための、手術のような処置)を受けるために入院する日の朝に、『入院する前に来い』とお呼び出しがあった神社で、到着したと同時に、太鼓が鳴って、朝のお祈りが始まった、ということがありました。(その時のエピソードはこちら)太鼓のタイミングのみならず、その後とても不思議なことがあったのですが、それを書いちゃうと、わかる人にはどこの神社かわかってしまうので、書かずにおきます。この日にお参りしたのを境に、私のメインのお守護さんは、こちらの神社の神様に替わられたようで、たびたびお叱りを受けたり、お導きをいただいてきたのはもちろん、なんだかとても安心する神様なのです。たくさんの神社の摂末社にいらっしゃる方(そして我が家の神棚にも)ではあるのですが、東京なら有名どころはここ、という神社が、この時思いついた神社でした。お墓参りを終えて、家族でご飯を食べてから、ひとり〇〇神社に向かいます。楽しい一人時間で、大好きな神社に向かっているというのに、本当に苦しいのはぬぐえなくて、道中何度も立ち止まって、その場にうずくまってしまいそうになりました。とは言え、立ち止まったらもう進めなくなってしまいそうで、なんとか自分を奮い立たせながら、神社にたどり着きました。神社は、お祭りでもあるのかな?というくらいの人出。外国人観光客と、七五三とお宮参りと…こんなに人がいるの珍しいなと思いながら、「長い列に並んでお参りする元気はないな」と、まずは摂末社に向かいました。ぼーっとしているからか、これまで気づかなかったことに気がついて、「この絵、こんな昔からあるのか(年号が入っていた)」とか、「〇〇神社って、ここにも書いてある!」とか、子どもが気づくようなあれこればかりを見て過ごします。人の少ない摂末社で、ふわふわしたまま神様にお祈り。こんなんでごめんなさいと思いながらも、元気をいただいてきました。そして、摂末社を出たところで、ちょうど誰も周りにいない瞬間があったので、鳥居のすぐそばで、立ち止まって、そしてうずくまりました。ずっとやりたかったことですね。でも、やったら、もう立てなさそうだと、避けてきたことです。うずくまったら最後、もう立てない気がしていたのに、神様のおそばだったからか、数分後には「よし、立とう」と立ち上がることができました。考えてみれば、その間誰も来なかったんだな、不思議。うずくまる前より、ずっと元気になっていて、神様には本当に感謝です。摂末社の神様の前に一度戻って、感謝を申し上げてから、いざ大混雑の本殿・拝殿の前へ。結構な長さの列でしたが、「並ばないことには、永遠にご挨拶できそうにない」ということで、列に並びました。列が進んで私の番に。なったと同時に、御祈祷を受ける方々が拝殿に入ってきました。そして私が祝詞を唱えていると太鼓が鳴って、御祈祷が始まりました。「あら、なんか、すごいタイミングだな」と思いつつ、祝詞を最後まで唱えますと…突然はたと、「『愛』だ!」と、はっとしたのです。それはひらめいたようでもあって、思い出したようでもあって、「ここの神社であったことを、愛の話としてブログで書いた!」ということも突然思い出した「愛」のことのうちの一つでした。「愛」のことを思い出したのと同時に、神様からの愛を、とても感じていてですね。こんな経験は初めてだったのですが、神様にとても愛されていると、深く感じていました。それは、光とか、キラキラのエネルギーではないのですが、神様が私に向けてくださっている意思のようなものが、私を包んで守っているような、優しさと力強さがありました。その言葉にできない存在を感じながら、「神様は私を愛している、そして私は娘を愛している」と言葉としてはっきり自分の中でつかんだのです。つかんだはつかんだものの、何かつかみきれてない…その何かが、思い出したブログの中にあるような気がして、神様に一礼してから、急いで拝殿前の階段を下りて、過去に書いたブログを探しました。そこに書いてあったのは、こんなことです。(過去ブログ「〈愛〉の話」より引用) […]