Categories
私の話

闘病する人の隣にいて、思っていたこと

こんにちは!占い師の光子です。


先週の初め、二日続けて全く別のところから
「ガンになった」
とそれぞれ別の人ですが、聞きました。

まさかの二日続けてだったので、なんとなくショック、そして
「この感じ、ちょっと嫌だな」
と感じていました。

この時に思っていたのは、
「ガンで死ぬことは悪いことじゃない」
ということ。

というのも、自分の母を見ていて、ガンを患ってこの世を去るということは、自分の意向や想いを残していく人たちに伝えることができるし、やり残したと思うことがあれば、やっておくことができるという【よく準備ができる旅立ち】だからです。

残される方も、辛いのは変わりないですが、心の準備はできましたね。
亡くなってからよりも、もうすぐ亡くなるんだと受け入れる過程の方が、たくさん泣いた覚えがあります。


そんな風にある意味他人事、どこかクールに思っていた私だったのですが、今週になって事態は急展開。

とても大切な身近な人が、少し前から体調不良で検査を受けていたのですが、どうも………かもしれないのです。

まだ精密検査の再検査を受けることになった段階なので、可能性がある、の段階です。

でも、この心がザワザワする感じ…きっと母のことに重ね合わせているのでしょう。
正直、考えないようにしてるけれど、怖くないと言ったら噓になります。

そしてその身近な人と、母のことを、50歳で旅立った母のことをたくさん話しました。


前置き長くなりましたが、今日は迫りくる死と向き合っていた、闘病中の母のことを書きます。

何度も書こうかなと思ってきたものの、躊躇があって避けてきましたが、きっと今書いておかないと、と思うので。

誰のためにもならないかもしれないし、現在闘病中や身近な人が闘病中の方には辛いかもしれませんが…m(_ _)m



元々痩せていた母が、どんどん体重が落ちることを不審に思い、病院を受診したのが最初でした。
結構早い段階で、病名はわかりました。

詳しく検査をして、主治医から病名とこれくらいのステージだと、あとどれくらい生きられると聞いた時、思わず母は大爆笑してしまったそうです。

その時妹は小学校4年生。主治医曰くあと母の命は2~3年。
私でも、たぶん笑っちゃうと思います。


2週間に1度、入院して抗がん剤治療を受けて、という生活をしていましたが、仕事には行っていました。

そして入院生活は、割と楽しんでいたのかな?
独特なのんきな天然さん、そしてことあるごとに差し入れしていたのもあって、看護師さんたちに大人気でした。

お腹が痛くて、ブタのぬいぐるみをいつもお腹にのせていたのですが、ブタの背中に穴があったんですね。
「あの穴はなんだろう?」
とナースステーションで話してる、とずいぶん後半になってから看護師さんに聞きました。(答えは、ティッシュケースでした!)

入院していた病院から、神宮球場の花火が良く見えたので、病院の屋上から一緒に花火を見たのを覚えています。


治療を始めたら少し回復して、一緒に旅行にも行きました。
淡路島に行って、美味しいお寿司を食べたのと、あと島に行って誰よりも母が元気だったこと。
「この人本当に病人?」
って感じだったよね、と妹と後から話したくらい元気でした。

抗がん剤治療の影響で、数々の体の不快はあったようですが、できることをみんなでやりました。
もっと前から、もっと手伝えばよかったと、後悔しました。


結構前向きに、病気であることを抜きにして、人生を楽しんでいるように見えた母でしたが、葛藤していた時があったのも事実です。

ケンカをした時に
「私、もうすぐ死ぬのよ?!わかってる?!」
という母に
「わかってるよ!それがどうしたんだよ!!」
と言い返したことがあります。

死ぬこと前提で生きててどうするんだよ!という文脈でした。
誰だって明日死ぬかもしれないのに、もうすぐ死ぬと思って生きててどうするんだよ!みたいな話だったと記憶しています。


あとは、母と妹と3人で買い物に行った時。
買い物大好きの母なのに、なぜかこの時は、妹と私の服しか買いません。

どうしたんだろ?と不思議に思っていたのですが、あるお店で、素敵なワンピースに出会いました。

母はとても気になっている様子。でも
「もうすぐ死ぬのに、自分のもの買っても…もう何回も着られないだろうし…」
と言って躊躇するのです。

「だからこそ、着たい物着れば?」
と思わず出てしまった私の本音に押されて、最終的に母はワンピースを買いました。

その後、3回くらい着ていましたが、とっても嬉しそうでしたね。


亡くなったのは、ある月の月末だったのですが、その月の上旬まで仕事に行っていました。

しんどくて家では寝ていることが多くなっていたのですが、父と二人だった日に、父が
「やり残したこととか、行きたいところとかある?」
と聞いたそうです。すると母は
「ない。私はその時その時を一生懸命生きてきたから、いいの」
と答えたそうです。


その数日後に急に体調を崩し、そのまま入院になりました。

痛み止めの麻酔を一番弱いのから、もう一段階上のにあげた日のこと。
「なんで今私をじーっと見てたの?」
と母は言うのです。

その時私は帰るべく、帰る支度をしていて、全く母を見ていませんでした。
「え?何言ってるの?全然見てなかったよ」
と答えました。

たぶん、幻覚が、始まってたのかなぁ。

そして母から妹に、本当のことを話した日。

それから後は、痛み止めの麻酔でほとんどずっと眠っていました。


もう目が覚めないかもしれないと言われていたけれど、一度だけ、目を覚ましました。
付き添っていた私の顔をぼんやりと見て、看護師さんが
「光子さんですよ、わかりますか」
と話しかけると、私の名前を呼びました。

そして、
「ありがとう」
と言いました。

これが、母が話した最後の言葉でした。


最期の瞬間のことは、以前、母を迎えに来た光の話に書きました。


私だけでなく、母も妹も、目に見えないものを受け取ることに優れているので、母の旅立ち後、よく妹と
「お母さんの写真、動くよね?」
と話していました。

もの言いたげに肩のあたりをやたら見てるな、と思うと、肩から下着が覗いていたり、不安なことがある時に見ると、大丈夫よと安心させるような顔で励ましてくれたり。
妹の大学受験の頃には、とても心配そうな顔をしていたそうで、受験が終わったらほっとした顔をしていたそうです。
(え?霊体なのに、未来のことわからないの??とその話を聞いて不思議に思ったものです)

そして妹の大学入学を機に、母の写真はほとんど動かなくなりました。
以前と比べたら、全くと言っていいほど、今は動きません。
こちらが動くような気がするから、そんな気がする程度にしか、動かなくなりました。

そして、感じていた母の存在感も、ぐっと薄くなりました。
「あぁ、今度こそ遠くに行ってしまったんだな」
という感じです。


目に見えない世界に近しく生きている私ですが、やっぱり、体のあった大切な人が、体をなくしてしまうのは、とても辛いものがあります。

そればかりは、どんな励まし方をされても、同じです。
だからスピリチュアル的には、〇〇なのよ、という励ましは、この場合、何にもならないと思っています。

でも、もし母が病気にならなかったら、私はもっと傲慢だったろうし、きっと結婚も出産もしていません。
家事や子育てをせず、実家で母に甘えて暮らす方を積極的に選んでいたでしょう。

そして今、占い師として成り立っているのは、子どもたちとの生活、日常があるからだと思っています。

たぶん子どもたちとの生活がなかったら、私はこちらに帰ってこられない人になっていたでしょう。
今だって、鑑定が続くと、なかなか普通の感じに戻れないのに(^^;)

そう思うと、あそこの時点で母が旅立ったのは、私の人生にとっては必要なことだったのです、きっと、恐らく。


お母さん、お願いだから、あの子の病気は一過性の、別のものでありますように。
願うことしかできないけれど…

生身の人間としての、私の話を書かせていただきました。
着地できず恐縮ですが、人の生き死にに、着地なんて、ないですね。



最後に、思い出してしまったので、余談ですが…

母がお腹にのせていたブタは、私が気に入って
「これ欲しい―!」
と学生の時に言っていたブタです。

「えー」
と母は買ってくれなかったのですが、後日、帰宅した母がビョンっと何かピンク色の物体を投げてきてw

キャッチして見てみたら、欲しかったブタでしたww


結局ブタは、母のために大変たくさん、ぼろっぼろになるまでお仕事してくれましたね。
ブタさん、ありがとう(*^^*)



あなたの毎日が
今以上に素敵なものとなりますように。

光子でした。

あわせて読みたい

母を迎えに来た光の話

思い出のお寿司を作りました

鑑定のご案内はこちら

講座のご案内はこちら

YouTubeでもお話ししています


Instagram やってます(*^^*)

カテゴリー別もくじはこちら